「猫、腕引っかいて」
痛みを伴って植えつけられた記憶は、消して忘れないと聞いたから。
すべてを忘れないための痛みが欲しい。
「アリス、いくよ」
「うん」
鋭い爪が手首に押し当てられる。
猫の動作は、子猫がボールにじゃれているようだった。
猫の服がはためく音が聞こえた。
目を開けると、薄い、小さな赤い線。
やはり、痛くない。
猫はこの傷の意味を分かっていないのだ。
優しいね。
「もっと強くして」
猫が首をかしげる。
「そしたら血が出るよ」
「いいのよ」
「血が出たら痛いよ」
「いいのよ」
「アリスは痛いのが嫌いなんじゃなかったのかい?」
私は笑う。
「今はいいの。」
今度は猫がにっこり笑う。
「それなら、アリスを食べてもいいかい?」
私の血を浴びて真っ赤に染まった猫を思い浮かべた。
嬉しそうに笑ってる。
それでもいいかな、と思ったけど、私は首を振った。
猫が下を向く。
「そう?」
チェシャ猫の綺麗な手。
人の手には似合わないはずの、長くて尖った爪がよく似合う。
「分かったよ」
猫は私の腕を自分の口元に持っていく。
低い声で、もう一度囁く。
「僕らのアリス、君が望むなら」
いつの間にか猫は顔を上げて、私を真っ直ぐに見ている。
焼けたような痛み。
こぼれていく血液。
どす黒い赤色。
「これでいいかい?」
猫の手が生温かい。
震える手が冷たくなっていく。
無理におろした服の袖の下で広がっていく血の染みを、冷静に見つめていた。
猫がまた、私の手を取る。
反射的にその手を振り払う。
「アリスの嫌がることはしないよ」
猫の手が温かい。
猫が私の服の袖をまくる。
真っ赤な傷口に口をつけて、乾いた舌で血を舐める。
舐める???
「やっ、止めてよ!」
体温が2度ほど上がった気がした。
「アリスの血を服に吸わせるなんて、もったいないよ」
私の手を離さない猫の口元は赤く染まっている。
あ、嬉しそう。
猫が血を舐め尽したら、それと一緒に、鮮やかだった痛みも消えた。
猫が吸い取ってしまったのだろうか。痛そうな素振りなんてひとつも無かったけど。
猫はまだ、幸せそうな顔をして私を見ている。
「アリスの血、やっぱりおいしいよ」
今の猫になら、ころされてもゆるせる。ぜったい。
そう思ったとき、猫が隣に座って、私をローブで包んだ。
なんてやわらかいんだろう。
「アリスが忘れたくないと思うこと全部、僕が覚えていてあげよう。
猫である僕ぐらいにしか出来ないことだからね」
あやすように揺れながら、低い声で囁いた。
オペラ座の怪人の声って、クリスティーヌにはこう聞こえてたのかな。
「だから、安心して、お眠り。」
目を閉じてつぶやく。
「ありがとう、猫」
目をつぶればはっきり聞こえる、嘘みたいな猫の鼓動。
やわらかくて温かい身体。
私が欲しかったものって、何だっけ。
「アリス、僕のアリス」
猫が呼んでる。