愛してる
あいしてる
ご め ん ね 。

きみは突然、僕の前に現れた。突然すぎるくらい突然。それも、見落としてしまってもおかしくないような一瞬の偶然の中で。きみに声をかけるのは、流星を捕まえようとするようなものだった。でも僕は、きみの残像にすがりつくみたいにきみの名前を聞いた。きみの目は僕を疑うみたいに泳いで、決して僕を見つめ返してはくれなかったけど、僕はそれだけで充分だった。

姫川翠。
声にして、文字にして、宙や紙を指でなぞって。
その美しい名前を聞いてから、きみのことばかりを考えた。

真っ黒で艶やかな瞳は長い睫毛に縁どられていて、真っ白できめ細かな肌は陽の光の中でまぶしく光っていて、真っ赤な唇は驚くほど丁寧に言葉を紡いで。伏し目がちにぽつりぽつりと話すきみはお姫さまみたいだった。白雪姫みたいだった。あれ、でも、白雪姫は心も真っ黒だったんだっけ。それでもいい。きっと、いや、絶対に、きみに出会ったのは偶然じゃない。僕はきみと結ばれるんだと、本気で思っていた。そんな風に思う自分が気持ち悪かったけど、そうとしか考えられなかった。

それからは、きみを愛でる夢を何度も見た。
神々しいほど没頭し合い、甘やかなほど愛し合う、そんな幸福な夢を見続けた。熱っぽくうねる胸はとても甘美で、僕の奥深くに荒っぽい熱を灯した。長い髪は乱せば乱すほど僕の指にまとわりついて、きみとの繋がりを深くしてゆく。狂ったように、怒りに似た感情、苛立ちに似た感情を、きみにぶつけ続ける。指を絡ませて、身体をこすりつけて、首筋に咬みついて、舌を差し出して。そうした本能の中で、糸を手繰るように引き寄せたきみの視線は、肉慾を神秘に昇華させられるくらい、美しかった。うっすらと紅みがさした頬から、甘いにおいが立ちのぼって、湿った吐息が僕らの身体をねばつかせる。きみに見つめられるだけで僕はただの獣になれた。理性を失うほど掻き乱される欲望に従って、きみを愛し続けた。
でもこれはただの幻想だ。現実とは違う。分かっていても僕はきみに幻想を求めた。愚かだとはわかっていた。でも、きみならわかってくれるかもしれない。そんなふうに、まぼろしのきみを愛した。



毎日きみと出会った場所できみを待ち伏せ。僕が生まれる前からそこにある喫茶店には、味わい深い顔をした初老のマスターがいて、僕の恋路を静かにゆったりと見守ってくれている。その店できみはコーヒーを一杯だけ頼んで、それを飲み終わるまで隅の窓際の席に居座るのが日課らしい。
僕を見るきみはこわいくらいに無表情だけど、僕を無視したりはしないから嬉しい。僕はただきみの前に座っているだけだったり、少し話しかけたり、きみのコーヒーに勝手に砂糖やミルクを入れてみたりする。そのどれをしてもきみは顔を真っ赤にして怒る。話しかけるたびに表情が一変する。クールなんだと思ってたよ。おとなっぽい顔して本当はうぶなんだね。可愛いね。大好きだよ。きみをもっと知りたいよ。きみをもっと、知りたいよ。

飽きもせずきみを怒らせ続けた。きみは飽きもせず僕を怒り続けた。きみと過ごす午後はとても楽しかった。じんわりと沁み込んでくる恋の味。ふとしたきみの仕草が胸を締め付ける。息をするのもままならなくなる。

「どうしてなにも言わないのよ!」
「へ?」
「しかめっ面で下むいて、なんなのよ!」
「ああ。ごめん」
「ごめんじゃないわよ! あなたがそんなんだと調子狂うのよ!」

減らず口なのがあなたのいいところなんじゃない、ときみが言ったところで、たがが外れた。
無理やりに上を向かせて、きみのくちびるに咬みついた。一方的なキスを、容赦なくエスカレートさせていく。

ゆっくりと目を見開いたあと、すっと無表情に戻ったきみが、本当のきみに化身した。





僕らの利害が一致した。