11年間、ほぼ毎日通っている慣れ親しんだ坂を自転車で下ると、いつも身体がうすく削られていくような気分になる。ずっと巻いていた包帯を取る時のような感覚。毎日、俺が小さくなる。空に、太陽に、風に、すこしずつ粉々にされた俺が光の中に融けていく。こうして俺がすこしずつ小さくなって、すこしずつ微かになって、語りかける言葉すらお前に届かなくなって、とうとう消えてしまったら、きっと、お前は俺を思い出せないようになる。9年にわたって積み重ねた俺との会話を、ちょっとも追想できなくなる。そうなってしまえばいいんだ。ずっと、そうなればいいって願ってる。


なあ憶えてる? 忘れただろ? 俺があのときどんな言葉を返したか、どんな顔で笑ったか。
なあもう忘れただろ? 俺のことなんてきれいさっぱり。





中3の冬だった。
俺の知らない自分がいた。水面の下でたゆたう影のように朧な気配を感じていたけれど、それほど気にしていなかった。影は重大な秘密を孕んでいることを知られないままに膨らんで、とうとう俺を覆い尽くしたようだった。でもきっと、俺は影の意味を本能的に知っていたのだと思う。それは、ゆっくりと時間をかけて遠くから近づいてきたのか、最初から近くにいたのかわからないくらい、受け入れやすい性質を持った俺の本能の一部だった。

「大嫌いだけど、愛してるよ」
クラスメイトの女子にそう言われて、照れたように笑う原を見た。
ああ、そうなんだ。とみんなが悟る。ほのぼのとした笑顔でふたりを包む。そのうち、「このリア充!」と茶化し出す。
ああなんだ原、彼女いたのか。付き合ってたのか、あの子と。超絶に甘やかな秘密ですねこりゃこりゃまいった。それにしてもなんで言ってくれなかったんだろ。非リアな俺を気遣ってくれたのかな。
なーんだ原、彼女いたのか。ふーん。だから俺と帰る回数が減ったんだな。俺と話してても、誰かを探すみたいにきょろきょろしてたんだな。寂しかったしおかしいとは思ってたけど、特に気にしてなかったな。まさか彼女がいるとは思ってなかった。鈍いんだなあ、俺。
幸せそうなふたりを遠巻きに見ていた。この事実を付随させながら追想してみると、原が今までとってきた不可解な行動のつじつまが合った。俺もみんなに混ざって「リア充死ね! 爆発しろ!」とか言わなきゃいけないんだろうけど、できなかった。ふたりを祝福するには、程遠い感情の中にいた。
電子音のチャイムが鳴って、好きでも嫌いでもないけど得意にしておかなきゃならない数学の授業が始まる。なんとなく時間が過ぎるのを待っていたら放課になった。何も考えられなかった。何も考えたくなかった。

「おい作並」
背後から声をかけられて心臓が跳ね上がる。原だ。今は原と、話したくない。顔を見せたくない。どんな顔をしたらいいのか、分からないから。無意識に止めていた息を吐き出して振り返る。
「なんだよ」
胸騒ぎがする。遠くから鳴り響くような、頭の奥で騒めくような。俺のまわりの空気はどんどん凪いでいって、教室を無機質なものにしていった。原は、すこし照れくさそうに笑いながら首を傾げる。
「ちょっと、先に帰っててくんね?」
ああ、やっぱりね。選ばれるのはひとつだけ。そして俺は、選択肢になる対象ですらない。一気に身体が冷えていく。すこしだけ手が震えた。歪にしか笑えていないのが自分でも分かる。こんなところ見られたくなかった。特に原には。
「なんだよ。そんなこと言いに来たのかよ」
そのまま鞄を手にとって、短くじゃあと言って走り出す。
「じゃあな作並ー」
すこし遠くで叫ぶ原の声がする。振り返りたく、ない。


分かったんだ。俺の禁忌が。これは大罪だ。聖書に赦されていないことだ。だけど、本当に恐れているのは、そんなことじゃないってことも。

ねえ原、俺、もうお前に話しかけちゃいけないの? そばにいちゃいけないの? あの子をそばに置いておきたいの? 俺じゃなくて、あの子を。果てしないみたいに長く続く帰り道も、お前と一緒にいられないの?
どうしてだよ。どうしてなんだよ。

原が構ってくれないから寂しいだけだと思っていた。原が引き起こす痛みに、こんな感情が入り混じっていたなんて、気が付かなかった。
どうしてだよ。どうしてなんだよ。
いちばん近くていちばん遠い。
このままでいられると思っていた自分の浅はかさを恨んだ。





冬のつめたい空気が頬を裂く。
ブレザーのボタンが鈴のように何度も鳴る。
夏よりやさしくなったはずの日の光も、今の俺の目には眩しい。
このままでいられるはずがなかったんだ。時は絶えず移ろうのだから。行き過ぎた焦燥で胸がいっぱいになりながらも、走り続けるのをやめられないまま、何千回も原と歩いた通学路を走り抜けていく。色褪せた森を臨む公園。まだ背の低い並木道。稲作が終わり、眠りについた田園。目をつむってでも走っていけそうなくらい慣れ親しんだ道。原との思い出がいっぱい詰まったこの道を、息ができなくなりそうなくらいの全速力で走っていく。



ねえ原。
俺、あの時、どんな風に笑ってたのかな?
お願いだから忘れてよ。
あの時、自分を過信してたから。
原は、毎日俺と帰ってくれると思ってたんだ。それが当たり前だと思ってたんだ。
こんな些細な日常が脅かされることなんて、考えてなかったんだ。
原の世界の隅っこにすら立てていない自分に気が付けていなかったんだ。
滑稽だろ?
だから、俺のことなんて忘れてよ。



原と別の高校に進学した。
卒業式以来、顔を合わせていない。
小・中・高と通り続けているこの通学路の風景はいつまでも変わらない。変わっていくのは俺たちだけだ。俺はこの道を、自転車を漕ぎながらひとりで通るようになった。お前は彼女と手を繋いで歩くようになった。ギリギリまでスピードを上げて、胸を騒めかせている感情を押し殺す。
この道を通っていると、幾つもの片思いを越えたって、原と同じ制服を着ていたあの頃を絶対に忘れられない気がするんだよ。
でも原が、お前との思い出を後生大事に抱え続けている、女々しくて見苦しくて痛々しい俺に気づくことは、永遠にないだろう。だから俺は、お前からいちばん近くていちばん遠い場所で、止まりそうになる呼吸の中で笑わなきゃいけない。

お前を忘れたいよ。
俺のことはやく忘れてよ。

矛盾だらけの願いのせいで、本当の自分を思い知る。原が俺を呼ぶ声を、表情のひとつひとつを、手を振る姿かたちを、今も鮮明に憶えてる。縋るようにかき集めてため込んだ記憶たちを、失いたくない。失うことはない。
だけど。
何も知る気がないから何も知らないままでいる、中途半端にやさしいお前が死ぬほど憎いよ。
お前なんて、彼女にフラれて盛大に泣けばいいんだ。