貴方。貴方。舌足らずな声が僕を呼ぶ。
君を拒むためにつくられたこの柵の外へ出ろという意味を込めて。
この小さな箱庭に君の声は響いて、無限で、果てしない。
貴方。貴方。
これはもしかしたら貝の中に閉じ込められた記憶なのかもしれない。
ここにつくられた塩辛くない広大な水たまりで貝を探しては耳に押し当てて、
つめたい水の中、僕の下でもがく生温い身体を思い出していた。
貴方。貴方。声の主は僕の中にいる。
でも僕は、この柵の中に一秒だって存在したことは無い。
君が泣いていたのはあの日の日暮れだった。まだこの柵の中に君が入れた頃だ。
塩を持たない潮風が、べったりと空気を孕んで部屋を這いずり回っていた。
君は僕の所為で泣いていた。貴方が僕を無視するからだよ。
君の目は憎しみではいっぱいだったけど、僕はそれの幾倍か君を馬鹿にできた。
今まで僕の世界にいなかった人を、どうやって無視するの?と聞いたら、
だって貴方、僕に出会おうともしなかっただろ、と言った。
こいつ死ねばいいのに、という考えの次に、一理あるかもな、と思ったからよかった。
もし順番が逆だったら、君は柵の中に二度と入れなくなっていたから。
つまり、君に対して初めて持った感情は、「死なせたい」だった。
これが君との「出会い」だった。
海じゃないのに君はあの水たまりを海と呼んだ。塩辛くない海なんて無いってことは、
僕も君も教わってきたはずなのに。誰に教わったかはお互いに内緒にしていた。
そのほうがいいことを、やっぱり教わっていたからだ。
君は海(もうめんどくさいや)が好きだった。
ここでなら僕とセックスしてもいいよ、と君が言ったので、そうした。
淡水の中だったから僕は大丈夫だったけど君は溺れかけたようだった。
分かっていて水の中に君を引きずり込んだ。
息の仕方を教えてあげようと思った。でも君が男だと知って止めた。
それならきっと分かるはずだ。
怖いくらい身体を震わせていた君は泡をたくさん吐いた。
水底から見るととても綺麗だった。見とれている間に僕は射精した。
君の身体は水でいっぱいになっていた。多分、僕の所為だと思う。
でも僕の口には、白い線を含んだ水が流れ込んできていた。苦かった。
これで僕と君は、同質の罪を背負うことになるんだな、と思った。
君が死んだのはあの日の朝だったと思う。君は蛇が棲んでいる木から実をもいで、僕とひと口ずつ分け合って食べた。
熟れた真っ赤な果実は、僕らを甘い汁で汚した。
僕はエバで貴方がアダムだと君は言った。それなら僕らは双子だね、と僕は言った。
ちょっとおかしいな、と思ったけど、きっとそうなんだと無理やり納得した。そしてそう願った。
それ以外は、有り得なかったから。
エバはアダムの肋骨から生まれた。君は僕の肋骨から生まれた? 知らないや。
でも魂は、僕らを水面下で引き寄せた。その時点で、白でもなければ黒でもない。
雲の白と空の青どちらが罪深いか問うようなものだ。
僕と君はどこまで似ている? 共有できている? そういえば、瞳の色も、髪の色も、肌の色も、唇の色も、舌の色も、一緒だ。
アーモンド形の君の目の形だって僕と一緒だし、手の大きさも、鼓動の早さも、一緒だ。
指を繋げて囁く。「肌が邪魔だ」。
君の中に、僕の中に、かえれない。この肌が邪魔だ。剥ぎ取ってしまいたい。身体が熱い。
口の中に残っていた果肉を君の口に押し込んだ。このまま息が出来なくなってしまえばいい。
君はそれを毒だと知らずに、呑み込んだ。
君はどこにいる? 君の声は響いて、無限で、果てしない。
君の声しか聞こえない。頭が痛い。やっぱり、身体が熱い。特に、内側が。
君はここにも、柵の中にもいない。なのに、何故? 僕は君の肌を剥ぎ取ったのか。
僕を呼んでいる。貴方。貴方。僕はもう、ここにはいないのに。君はそこにいないのに。
もう僕らはひとつなのに。