甘い香りがした。君の香りだと思った。でも君はどこにもいなかった。
どうしてだろう、君の香りと花の香りを間違えた。
甘ったるい香りは空気を澱ませて、濁らせて、僕はまるでどろりとした水の中にいるようだ。 眩暈がする。僕が死んでしまうことばかり想像する。 きっと花は僕を殺したいんだ。それなら僕は素直に、大人しく殺されよう。 殺されるために、花を探そう。 きっとここは庭でも森でも林でも野原でもない。不安と花の香りの所為で、眩暈は頭が割れそうなほどの痛みに変わる。 この香りは、君の香りと似ている。

花の香りを追いかけてみた。いくらかいくと花の香りは強くなるようだ。 そんなことに気付いたところで、どこまでいっても同じ景色、同じ香りのこの場所は無限地獄のようで、 花にたどり着く前に僕は狂死するかもしれない。
地平線が見えるくらい、広い広い檻の中、長い格子が蛇のように、天空を目指している。

外壁に絡まるばらを見つけた。棘が刺さるとわかっていてそのつるに触れた。 真っ白なばらは血を吸って赤く染まると聞いたことがある。 誰の血を吸ったのだろう? このばらはもうすでに、艶かしい女性の唇のような真紅をしている。
僕の指から、僕の血と、ばらの血がすべり落ちていった。
渇いた大地が、ばらが、口を開けて、それを呑み込んだ。

閉じ込められて動けない風。何かに遮られて、ぼんやりとした太陽の光。白い箱庭の中の牢獄。 不自然なこの場所で僕は死に物狂いで、でもそれを隠してどこまでも歩いていく自分に陶酔しているらしい。
不自然なのはあなたでしょう? 君がそう言った気がした。君の声が聞こえたような気がした。 でも僕はすべてが幻だと分かっていた。だって君は、僕が殺してしまった。この手で、この眼で、この身体で。

どこまでいってもどこへもいけなかった。つまり僕はどこへもいかなくていいらしい。 それに気付いた今、ここで、意識が途切れればいいと思った。 座り込んで膝を抱えて、頭を空へと向ける。

「死にたいな」

君がそう言ったから、僕は君にナイフを向けた。君は僕に抱きついた。あたたかい血が僕の身体に染み込むのが分かった。 君は泣いても笑ってもいなかった。ただ僕を見つめて、強く僕を抱いて、身体を下にずらした。 肉がちぎれる湿った音がして、僕の身体にいたるところに血しぶきが飛んだ。
僕はいつもより重たくなった君を抱き上げて、ナイフを君から引き抜いた。 君の頬を撫でた。リコリスが君の頬に咲いた。僕は君を抱きしめたまま眠った。



僕は憶えている。血は血のように赤く、瞳は瞳のように黒く、執拗に、鮮明に、焼きついている。 そして僕は、ここがどこか、何のために在るか、何の所為で生まれたのか、知っている。 この身体は凪いだ水面ようで、君に伝える言葉を叫びだすことも、心を壊して泣きだすこともできない。
ねぇ君、僕はもう君に守られてはいけないんだ。君はどんなことをしても僕の共犯にはなれないんだ。 僕を傷つけるばらの香りは、僕の罪の証。君と僕がもう相容れられないことの証。 僕らは離れてしまったんだ。君は死んでしまったんだ。
ここから出して、君。ノアの方舟は鴉の次に鳩を飛ばして大洪水の水が引いたことを知った。 君は僕の鳩だった。鳩はいつの間にか目を真っ黒にして、羽根を傷つけて、飛べなくなった。 これで僕は方舟に閉じ込められたまま、洪水の終わりも、雪の終わりも知らずにいる。





昨晩11時ごろ、新宿区のマンションで28歳の女性が刺殺体で発見された事件で、 女性の遺体とともに、女性と同居していたとみられる男性が昏睡状態で発見されていたことが判明しました。 男性は都内の病院に搬送され治療を受けていますが、現在も意識不明です。 新宿警察署は男性が何らかの事情を知っているとみて、回復を待って事情を聞く方針です。